描くということ

 

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これはむかし描いた連作です:)

今回はタイトル通り、自分がなぜ絵を描くのか、何を感じているのかについて描いてみました。読んでもらえたら嬉しいです😊

 

 

 

失敗とか成功とか

 

いつも絵を描いていて思うのは、真っ白な紙に何かを描いていくという行為には一種の恐怖との戦いがあるということだ。

まだなにも描かれていないキャンバスに対し、一本の線、ひとつの塊を描いてみる。書き込んだものは取り消すことができないものとして紙面に残り続ける。だからとても慎重にやる。それでも思い通りにいかないことの方が多い。『ああ、失敗したな』と思っても今ではもう作品の一部になってしまっている。

過去の失敗、失敗した過去をなかったことにしたくなる。はじめからやり直したくなる。

新しい紙に取り替えるか? 失敗だと決めてしまえばそれもできる。でも諦めずにもう一筆、さらに一筆とそこに新しい軌跡を付け足していくこともできる。

新しい紙に乗り換えればその後の進展は永遠知ることはない。でもそのまま描き続けるのなら過去の過ちと思われた一筆もなんらかの形には発展させることができるかもしれない。

 

そうして〈このまま続けるか、もうやめてしまうか〉を瞬間瞬間に選択し続ける。描いては考え、描いては考えを続ける。

『自分の生んだこの一筆はこの後どんな運命を歩んでいくことになるのだろう』そんなことが気になってくる。自分のインスピレーション・創造性に対して愛着が湧いてくる。

そうして『そのまま育ててみよう、見限るのはまだ早い』ともう一度向き合ってみる。最後までわからないじゃないか。それだって自分次第だ。

そうやって続けていった後になってはじめて、一筆には成功も失敗もあるはずがなかったと気づかされる。結局失敗とか成功とかいうものは自分の心が決めているものにすぎないということがわかる。大抵うまくいかなかったと思っていたときの方がたくさん工夫していい作品に出来上がったりするから面白い。

 

 

 

理性の声に従うな

 

絵を描くと自分の心と向き合うことになる。心との戦い、一種の精神統一をやることになる。理性が自分を決めつけようとするのと戦う。

『お前は下手だ、このままやったって誰も評価してくれないぞ、みんなお前を笑っているぞ』

そんなことを自分が自分に言っているのが聴こえる。これまでたくさん傷ついてきた心の声がそう言うのだ。もう傷つきたくないから。

 

そんな時『ほんとにそうかな? 俺ってそんなにダメなやつかな?』と心の声にあらがってみる。挑戦してみる。『結局最後までやってみるまでわからんじゃないか、ただ一筆書いただけで全て決まるなんてはずないじゃないか』そう思えたら後はすべてを生かし切るという覚悟、すべて生かしてやるんだという決意でやる。『最後まで諦めずにやりきってみよう。思い思いになってみればいいじゃないか』というふうに。自由にやればいいじゃないか。

 

ただ直感がおもむくままに筆を付け足していく。それだってただの直感でしかない。それを悪く言われても責任なんてとれない。『俺だってよくわからないんだから文句があるなら直感に言ってくれ』すると自然、理性の声も無視できるようになってくる。理性の言い分も大した言い分でもなかったとわかってくる。理性のことも理解してあげられるようになる。


面白いことに、こんな過程に揉まれたときは必ずいい絵が描ける。

 

 

 

最後までやってみなきゃわからないじゃないか

 

自分が絵を描くときは〈諦めようとする自分〉と〈そんな自分を超克しようとする自分〉とのせめぎ合いを感じながら描く。心の内側での葛藤を抱きながらやる。

 

自分はプロの絵描きではない。絵を習ったことはないから技術はともなっていない。線は対象をうまく描き出さないし、いびつだし、色味には雑味が多い。本物そっくりに描くというのだってできない。そんな自分に描く権利はあるのか?

大学2年の頃、ダヴィンチの素描展に行ったときに、ダヴィンチの描き方に注意をはらって、そこから本物そっくりに描くスキルを頂戴しようとしたこともあった。でも結局真似ごとにしかならないからやめてしまった。

 

(↓ダヴィンチの素描を見た後書いた模写)
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未だに自分の絵を見た人からはいろんな意見をいただく。

「絵を習えばいいのに」

今じゃまだ足りないかのように。でもそんなことはどうでもいいじゃないか。そういうことじゃないのだ。自分は機会がある度に、なんとなく紙に向かってペンを握った。それでいいと思ってる。それ以上であってはならないとさえ思う。描いているときそこに忘我・忘理があればそれでいいんだ。今でもう必要十分なのだ。自分は絵師として野心家ではない。絵は習わずして感動させたい。それが芸術だ。

 

絵を描くようになってある確信を抱くようになった。描くことは〈なんでも最後までわからない〉ってことを教えてくれた。人生はそうは教えてくれなかった。ずっと〈こうしなさい、でないと〜になるぞ〉と言っては脅されてきた。それが人生のように思う。それが学校、社会、人間だ。人間には効率を考える頭があるからか。ここでも結局理性ってやつが顔を出す。

でも真実は〈やってみるまでわからない〉の方ではないか。どこまでいっても直感と感性を信じたい。はじめから先が見えてるものなんて創りたくない。

 

 

  

勝ち・負け

 

自分は中学生になって私立に進学した。スポーツ校でみんなスポーツに取り柄があった。自分はスポーツの経験がなかったから学校ではとても浮いた。運動神経はよかったが昔からスポーツはやらないたちだった。スポーツ番組を見なかったからだろうか? 親に薦められたりしなかったからだろうか? 理由はいろいろあると思うが、自分では〈勝つか負けるか〉の世界にうまく馴染めず、うまく友だちを作れなかったからだと思っている。

 

自分は未だに〈勝ち負け〉という基準が好きではない。根っからの負けず嫌いだからかもしれない。そもそも対等の条件から始まる争い事なんてないじゃないか。必ずどちらかにハンデがあって、どちらかにアドバンテージがある。〈負けた〉といってもそもそも勝負の土壌にすら立っていないことの方が多い。弱肉強食は食うものと食われるものが定まっているととても動物的でつまらない。実際勝ち負けという基準はとても動物的だ。だからやる気もあまり起きない。きっと自分がいつもハンデを負っている側だったからだと思う。

 

高校に入り、スポーツに明け暮れた時期があった。この時はたくさん練習もしたし、公式の試合にも出場した。だから勝負の土壌が整った状態でスポーツをした初めての経験だった。その時は熱中した。だからスポーツそのものが好きでなかったというわけではない。むしろスポーツは最高だと思う、安易に勝ち負けを競わなければ。もっと楽しい心持ちで一緒にいられないかな〜体育会の人たちと。

 

中学の時はスポーツ校の空気というか、そういうものに馴染めずにいつも独りでいた思い出がある。それに自分は勉強もできなかった。小学校の頃はできた。でも中間試験とか期末試験とかそういう勉強に変わった中学ではうまくやり方もわからなかった。まあ簡単にいうと頭いいとか頭悪いとかそういうことに関心がなかった。誰かより劣っていてもだからなんだというのだ?成績はビリから数えた方が早かった。ビリから2番目になったこともある。まさに学年全体に対して劣っていたわけだ。

 

スポーツもできない、勉強もできない、そんな自分。先生からは悪い評価ばかりもらった。小学校の頃は「感受性が強く、正義感があり、心の優しい子」と言われた。中学に入ると「勉強のやる気がなく部活もやめてしまって、規則を守らず生活態度も悪い」と言われた。それを世間ではクズという。こんなことでクズになるのか知らないが、とにかくこの違いはなんなのだ? 自分が変わったわけでもないのに受ける評価は全く変わった。〈いい子〉だったのが〈劣等生〉になった。心ではなく行いを見られるように。それだって決して悪事を働いたわけではなかったが。でも別に自分で自分を卑下したりもしなかった。『どうでもいいやー』という感覚だった。

だってどうでもいいじゃないか。

 

ちなみに高校に進学してからは目的ができて勉強し学年2位まで上り詰めた。と名誉を挽回しておこう。自分は変わってないが受ける評価はガラリと変わった。世間は面白いものだ。

 

 

 

誰にだって得意分野がある

 

自分には得意分野があった。想像力だ。

 

小学校2年生の時、LEGO・TECHNICという大人向けLEGOブロックにハマった。ブロックで何かを造ることは楽しかったが、造ったものに役柄を演じさせ、一人芝居をして遊ぶことの方に強くハマった。ものを造るセンスが飛び抜けてあるわけではなかったが、ストーリーを組み立てて遊ぶ、いわば妄想みたいなものにはかなり長けていたと思う。自由発想には長けていた気がする。人と同じ土俵でやり合うようなことをしてこなかった分、自分の心の声はよく響いて聞こえてきた。

 

その時の感覚は今でも強く残っているが、母親もそんな遊びにはまり込む自分を強く覚えているらしい。なにせものすごいセリフ量だったからだ。放っておけば何時間でも止まることなく延々続けている。ずっとセリフを口にする。ストーリーを演じ続けている。母からするとそれが面白かった。そのセリフの巧みさもすごいのだ。効果音なんて馬鹿にならないほどリアルだった。何かを忠実に模倣するとかではなくて、心の中で鳴っている音をただ出していただけなのだが。

ちなみに母は自分が悪い評価を受けていても口うるさく言わなかった。毎月のように学校に呼び出されていたがそれも達観して楽しんでいたようだ。面談が終わると「夜までには帰ってきなさいよ」と言い残して清々しく帰っていった母が懐かしい。くだらないことで母は怒ったりしなかった。

 

演じて遊んでいるときの感覚といえば、ただ自然と次から次へとストーリーが生まれてくる感じで特別あたまを使っているわけではない。子どもがよくやるように自然と飛び出してくるのだ。そんな遊びを恥ずかしいことに中学を卒業するまで続けていた。まさに子どもじみた子どもだった。その歳になってもおもちゃで一人芝居をして遊ぶ息子をずっとそのままにしてくれた母は偉大だったと思う。なかなかできることじゃない。

中学に入るといよいよ想像はかきたてられ、ストーリーも複雑になってきた。その時に頭が勝手に生み出した数々のシーンが現在の自分の生きる指標になっていたりする。かつて自分が生み出したヒーローのように今日の自分があろうとしている、そんな気がする。心がいつも正義を迫ってくるのだ。それってまあ、自分なりの正義だが。

 

 

 

勝算によらずただ信じる

 

絵を描くときもはじめから何を描くか、形なんかが見えているということは少ない。ほとんど無の状態からスタートする。

 

ペンを持ち、紙に向かってみる。一瞬ちらっと映り込んだインスピレーションを瞬時にとらえ、さっと一筆いれてみる。その時も全体像が見えているわけではない。それでもとにかくその一筆目のチャンスを逃さないように、勇気の一歩でとらえてみる。

 

たとえ一筆目が入っても、今度はその後が続かない。そうすると一筆目が随分と邪魔に見えてくる。こいつのお陰で非常にやりにくい。『失敗だったか?』疑いの目が迫ってくる。たゆみそうになる感情に向き合いながら『いや絶対間違いない、こいつも俺もこれでいい、これからが勝負だ!』と自分を信じてインスピレーションを待つ。するとチャンスの瞬間が訪れる。必ずやってくる。その時だ!

 

いけ!チャンスを掴め! 二筆目を紙に添える。見失わないようにさっと、しかし丁寧に。

 

筆の回数はインスピレーションの回数だ。そこに算段があるわけじゃない。算段はもっとずっと後になって出てくるものだ。絵を描くということに算段なんてものはほとんどない。最後の仕上げの時になってやっと算段の方からひょっこりとやってくる。絵の勝算は自分のコントロールを離れていて、決して自分本位のものではない。インスピレーションや直感だけが勝算をコントロールできるのだ。

 

勝機も勝算も何もない、かつての勉強もできない、スポーツもやる気がない、誰からも評価されない、くすぶっていた中学時代の自分のような状態をずっと過ごし続ける。それが絵を描くという行為だ。その状態をぐっとこらえて次なるインスピレーションを待つ。やっとのことで次のチャンスに恵まれてもそこに算段があるわけではない。『失敗か? このまま続けていいのか? いっそやめてしまうか? 新しい紙に取り替えるか? 今回だけなら…』そういう思いをぐっとこらえて自分を信じる。そこに根拠なんてない。ただインスピレーションに自分を任せ切る。うまくいくかわからない、それでもインスピレーションという自分の直感を信じて前に進む。わかるわからないで押しはからないように徹する。理性に負けてなるものか。
そのような恐怖の期間を乗り越えてはじめて、算段も勝算も立つ最後の段階に至ることができる。単純な線とかたまりでしかなかったものが意味を持って生まれ変わる。動き始める。

その時『ほら、やっぱりやってみなきゃわからなかったじゃない』と思う。

 

絵を描くことはこういうことを自分に明らかにしてくれるから好きだ。とても大切な精神修養をさせてくれるから大好きだ。し、必要だ。

 

 

 

子どもに負けてちゃ大人と呼べまい

 

絵で何かのメッセージを伝えようと思って描くことはあまりない。目的を持って絵を描くこと自体が自分のスタイルではないから。無目的に、キャンバスに向かう。子どもが絵を描くように。でももう自分は子どもじゃない。

だから子どものように描くことは難しい。
算段も勝機もないのに描くことは難しい。

それでも敢えて挑戦する。だって人生もそうだもの。

そうすると自分の直感の偉大さを思い知らされる。
子どもの心の清らかさの偉大さを思い知らされる。

 

子どもが偉大とはいうが自分は子どもの頃の自分に負ける気は毛頭ない。だって今の自分の方がたくさんのことを経験し乗り越えてきたのだから。あとはそんな過去の遺産に囚われない自分をつくれるかどうかということ。

その練習を自分は絵を描くことでしているのかもしれない。

 

 

(↓これまでに描いた絵 )

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