物語は語られる

本を読む、映画を見る、話を聞く。ある物語が語られる。語られた物語は自分の中の、どんなところにとどまって、何を語りかけるのだろうか。

2回目の投稿です。物語について書いてみました。

 

 

お化け

 

夜に、ふらっと神社へ行ったことがある。あたりに人はいなくて、静かで、風が吹いていて、木々の葉が擦れあう音だけがする。月が雲に隠れて少しだけ出ている。そこに立ち止まっていると、神社の中は他の場所と違って、言葉にできない何か、強い印象を生み出している気がした。後ろを振り返ってみると、井戸から髪の長い白装束の女性が這うようにして出てきた。

実際のところ、井戸から女性は出てこなかったけど、そんな視覚的なイメージが頭をよぎった。

 

ある場所、ある瞬間に、言い得ぬなにかを感じる、そういう時、お化け、物の怪、妖怪、鬼、精霊、天使、悪魔、神、天国、地獄、そういう想像力をもって、その言い得ぬ何かを言い表そうとする。頭の中には、ありとあらゆる物語が埋もれている海があって、現実の言い得なさに直面すると、その海から埋もれていた物語のイメージが湧き上がってくる。

 

僕が神社で感じた感覚は、井戸の中から出てくる髪の長い女性のイメージと結びついた。それは映画の『リング』の影響(トラウマになった)が大きいけれど、そのイメージの原型には、昔の日本の怪談の世界観がかなり現れているように思う。そのとき、現実のお化けは、貞子は、出てこなかったのだけど、そういう存在があらわれたと言いたくなるくらいに、奇妙な臨場感が感じられた。

 

 

リアリティ

 

知り合いに霊の存在を信じている人がいる。その人の祖父が亡くなったとき、寝ているときに、突然、家族の集合写真の入った写真立てが倒れたそうだ。彼は、その出来事を祖父の霊が家にやってきて自分に会いにきてくれたからだ、と話した。

 

昔の人は、誰か人がいなくなってしまった時、神隠しにあったと言った。いなくなった人の不在感、やるせなさ、なんで、という気持ちに対して、神が連れ去ったということで、一つの理由を与えようとしたように思う。霊や神が出てくることで、言葉にするとこぼれてしまうものも、ひろってくれるのかもしれない。

 

かつての日本の世界は、自分と他者、世界の境界は、きっと今よりはっきりとしていなくて、そのゆるい境界に、霊や妖怪がたくさん住んでいたと思う。陰陽師やイタコのような人たちは、それを利用して、共同体の悩める問題に対して、神、あるいは霊を自分にとり込んで、媒体となって、答えを提示した。彼らは今のカウンセラーのような役割を担っていて、悩める人たちに、良薬になり得そうな物語を処方したのではないのかなと思う。

 

日本の昔の古典にはお化けというか、人の強い感情が肉体の物質的な限界を超えて、精神的な存在として出てくる逸話がある。平安時代に書かれた源氏物語には、源氏の恋人の六条御息所が嫉妬に狂い、生き霊となる描写がある。生き霊となる六条御息所は自分が生き霊になっていることが自分ではわからない。結局、その生き霊は寝ている間に、彼女の恋敵を殺してしまう。六条御息所の無意識は生き霊になって、物語の現実に現れてきた。昔の人達はこの話を、現実の生活に起こりえること、として読んでいたいたのかな。なんとなく、そう読んでいた気がする。

 

 

言霊

 

物語に霊、お化けが現れてくる時、それらは何かしらの強いメッセージを象徴している。生まれた言葉、思念には物理的な制約がない、言霊という言葉があるように、一度語られた思念は、語り手から離れて、語られた人の頭の中で生き続け、時にそれ自身が再び語りかける。誰かに悪口を言う、その言葉は言葉の枠を超えて、言われた人の頭のどこかで、思念、霊のような存在になり、生き続ける。逆もまた同じ、語られた美しい言葉も思念として生き続る。言葉をかける人が意識していなくても。人間という存在は何かしらの思念に支えられていなければ、生きていられないように思う。この世に生まれてきた赤ちゃんには、名前がつけられる。その子に、そうあってほしいというような、願いのように、名前をつけるかもしれない。つけられた子は親の願い、思念を受け取る。人は自我ができる以前から、誕生の時から既に、言葉を語りかけられている。

 

生きている間に、いろいろな場所にいき、道を歩いたり、話を聞いたり、本を読んだり、サッカーをしたり、映画を見たり、犬と散歩したり、猫を撫でたり、恋愛をしたり、誰かが死んだり、綺麗な夕日を見たりする。生まれてから死ぬまで、いろいろな種類の多くの事から、語りかけられる。外側にクリームが塗られたミルフィーユのように、自分自身は一つのようだけど、語られる何層もの思念、イメージ、物語の生地が積み重ねられて、自分が作られているように思う。そうして作られた一人の世界の土壌から、あるイメージが生まれて、そのイメージは語る人自身を離れて、誰かの内面へ入って、その人を成りたたせている生地になっていく。誰かと話していて、いい表せられない情感を感じる時、その時に自分の中にイメージが入ってくるように感じる。情感とイメージは一体で、物語はそうして共有されている気がする。

 

 

ばら

 

現実の偶然によって、何かを失う。何かを失い自分の一部は喪失する。誰かに語られ、作られた物語はどこかで失われ、崩れていくかもしれないけど、再び、物語によって癒される。語られる新しい物語は、新たな解釈を生み出して、その人を浄化させ、静かに力強く無意識のレジリエンスを動かす。結局、ある人の存在は誰かを支える物語になり、ある文章、ある音楽、ある柴犬、情感をそなえているすべてのものは、誰かを支えることができるのだと思う。

 

米国の思想家、ラルフ・ワルド・エマーソンはエッセイの中で語っている。

 

「このばらにとって時間などはない。ただばらというものがあるだけだ。この世にあるその一瞬一瞬に完璧なばらというものがあるだけだ。葉の芽が萌え出ぬうちに、すでにばらのいのちはあますところなく活動していて、満開の花に多いとか、葉のつかぬ根に少ないということはない。あらゆる瞬間に変わることなく、ばらの本性は満たされており、みずからも自然を満足させている。」(エマソン論文集)

 

自分が語るべきものを語ることができれば、それはそれ自身で、ばらのように、自分自身を満たし、誰かを満足させられる。瞬間瞬間で、語りかけているものに耳をすましていたい。

 

昼夜が完全に逆転していた時、始発の電車にのって、最寄りの電車を降りた。あたりはまだ暗かった。空は徐々に様子を変えていた。深い青色から、薄い水色へ、それから、少しの紫とピンクが混ざり始めた。毎朝、こんなに空が変化しているんだ、と思った。空の紫とピンクの部分はオレンジに変わり、そこに朝日が昇ってきた。空は明らかに固有の情感を発していて、自分を満たしていた。その日の朝の空は、他の人も、鳥も、木々も、花も、あらゆるものを満たしていたと思う。

 

語られる物語は、偶然に語られて、自分の本性の通じるどこかで鏡のように感じて、無意識の海に沈んでいく。無意識の海とは自然そのものだと思う。恐怖すること、喜ぶこと、悲しむこと、それは自然の一つの形で、無意識の海から沸きおこったものだ。先祖の時代から、言葉、霊、思念のメタフォーを駆使して、いろいろな物語を作ってきた。人の無意識と自然は通じていて、語る物語が、自然に流れているリズムとメロディーに乗ることで、多くの人の持つ無意識の海を震わす共感を生み出したのだと思う。紫式部は千年後の世界の人間が自分の書いたものを読んでいるとは思っていなかったと思う。でも、彼女の物語は生き続けて、千年間、語られ続けて、それは僕の頭の中で六条御息所の生き霊になって、神社の貞子のイメージとなって現れた。

 

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