ヴェネチア・ビエンナーレ芸術論/芸術のあるべきすがた

こんにちは😌

2回目の投稿、早速ですが二週間越しの投稿で、週一投稿の約束を破っています😊

Art Base Projectの山内勇史です。

今はまだ陽の目は見ずともいつの日か必ず大義を帯びるであろう設計図をここに発表したいと思います。次代の設計図、芸術市場を乗り越えた文明という枠組み内での芸術の価値を、今はただ歴史に刻み込むという一心をもって、万感のこもる中、今ここにしたため置きます。

 

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〜とあるヴェネチア・ビエンナーレを例にとった芸術論〜

 

【傑作とは何か】

ある人間の一個の主張が、時代に最も顕著な影響を与え、当世の社会の設計図として機能するためには、その思想がたとえ匿名性を帯びていようとも、人々に感涙を焚き付け、いかなる哀感も苦悩も葛藤も押さえつけて、心に希望の一途を与えるものでなければならない。優れた思想の与えるものは前途であり、光明であり、色彩である。

それは権力や名声とはまったく別の要素をもって、人々の心に感動を与える。その思想の産物に委ねられたエネルギーは、たとえ無名の作家の無名の作品であっても、世界と人々との間で反響しゆく人間性ゆえの雷鳴をもたらすのである。

然るべき思想は、種が雨水と陽光に浸れば必ず芽吹くのと同じように、然るべき要点を押さえているがために、当然にして奮然と社会に芽吹いてくるものである。ことはそれが人々に希望を与えるものであり、人間は人知れず自身の内省の内側に希望を見出すものであるから。

思想であっても哲学であっても、また、文学であっても芸術であっても、一個の人間の主張であるならば、真に社会に芽吹くものと単にいち流行に過ぎないものの間に生ずる違いは、このように歴然としているものである。いわゆる人間性の頂きにリンクした知性のみが、このような傑作たり得る。それだけが真実、われわれ人類が遺産とすべき産物といえるだろう。

 

そもそも、今世紀・21代目を迎えた現代にあって、我々が紡いできた数々の遺産は、多くの機会・側面とにおいて絶えず欠点を吹き出しながら成長してきた叩き上げの産物といわねばならない。かつての文明はかつての文明ゆえの劣化性を内側に込めており、それが創出の過程あるいは創出後われわれの手の元に至るまでに数々の屈折をこれに与えながら、結果として遺産に多くの欠点を与えることになるのである。ゆえに遺産に与えられる〈過去からの継承〉という勲章は、過去あるいは継承というこの二点を理由として、一義的な高い評価を遺産に与えるものではない。

たしかにそれは高くそびえ立つ欠点の凝固物としてその高さゆえの慇懃さを漂わせることはあるにしても、その内実は決して素晴らしさを権威付けるものではない。我々は多く、旅行や勉学の折に過去の遺産を歴史のうちに見聞するが、かくいう体験からしてみても、これらが決して傑出したものばかりでないということは我々が想像するに難くない。

 

すると、多くの遺産というものは、現代においては、我々が無条件に降伏すべきものではない。それは我々を拘束すべきではないし、我々もまた拘束されるべきではない。時間と歴史はそれだけをもって威厳を保つものではあり得ない。

ゆえにわれわれ21世紀の人間はこれらの遺産を悠々と乗り越える完全な権利も力も当然に有していることになる。このような整理から、我々は今一度、過去から継承した流れだったり、物品・思想・在り方だったりを吟味し直すべきであり、一様にその前にひれ伏しているようなことがあってはならない。

つまり我々は、あるひとつの任意の存在については、それが有する時間的・歴史的な価値を裏付ける遺産という情報さえも乗り越えて、ただ目の前のものの有する人間性の頂きを判断する姿勢を身につけなくてはならないのである。

 


現代社会における審美眼】

今日われわれが生活するこの情報化社会にあって社会あるいは人々の関心をさらっている主要な要素は、ある物そのものより、むしろそれと共に発信されている副次情報であることには多言を要すまい。たとえば遺産は、それが遺産として有する〈遺産〉という情報・歴史・生み出した創造主は誰かという事柄が、そのもの固有の純粋な審美的な存在価値を差し置いて主要な情報要素として語られる。我々の世界が情報社会である限り、このような副次情報という広告力のもつエネルギーは、否応なく人間の感性から関心をむしり取って我がもの顔をする。我々は絶えず、物の・思想の素晴らしさではなく、広告の発する副次情報の巧みさから価値判断の選択を迫られる。広告社会はひっきりなしに実物に触れる機会を阻んで、商業主義的で恣意的な整備を施された危うさを代位している。

結局、このような社会における副次情報の優劣・正否を議論し、それがいかに素晴らしいものであることの証明を試みようとも、それはある存在そのものの価値を裏付けているとは言いがたい。それにも関わらず、カクカクシカジカの催し名を冠って発信された物や思想は、ただそれだけで、たったそれだけのことで、乱世の情報戦という戦の上ではたちまち優勢に立つことになる。

もはや我々にとって情報は広告であって、真実ではない。広告は真実でなくとも、ある種の事実となった。真実は事実でなく、空想の名を付されることとなった。真実より、科学の一員である広告が事実として猛威を振るう時代となった。

 

しかし、たとえ情報そのものが正しかったにしてみても、その真相を突き止める能力に長けることになったとしても、目の前のものの価値を判断することにそれらは決して腕力をふるうものではない。

結局、我々は見なければならない。情報戦に勝ち抜いた思想・存在そのものに果たして価値があるのかということを。耳を傾けるべきは、それの奥底に流れるべき心の息吹きの有無いかんである。これを世にリテラシーというが、それを正しくは審美眼というのである。情報のリテラシーではなく、眼前の事実から真実を見破るリテラシーである。

 

 

ヴェニスの商人 ビエンナーレダミアン・ハースト

ことに芸術の世界にあっては、あらゆる種類の芸術が今日に至るまでに開拓され、たとえば、かの偉大なるパブロ・ピカソキュビズムのように、新しい物の見方や表現の方法を模索する試みそのものがそのままアートである、と言わんばかりに訴求力をもっている。現代アーティストはこぞって、斬新でパワフルな活動を展開してはアートとしての評価を受ける。

特に今年2017年にはイタリア・ヴェニスの場で、世界最古の芸術祭であるヴェネチア・ビエンナーレが開催されると共に、重ねて、現代アーティストのトップオブトップ、ダミアン・ハーストの個展も併催された。

この二大イベントによって、ヴェニスは世界に現代アートが何であるかを一目瞭然・描き出したといえる。あれこそ、今日のアート界が芸術として提唱する思想・存在を暴き出す時空間であったのだった。

 

ただ、芸術が本来何であるかということと、われわれ人類が血迷った挙句に辿り着いたアート(=現代アート)が何であるか、ということは別のテーマであろうと思う。本来あるべき芸術と、我々が歴史のうちに生み出した遺産としての現代アートは、それはまったく異なるものとして両立し得る。

当為論としての芸術は、当世の設計図として機能する、沈み切った空気にたわむ朝露のごとき純真な力をもって人々の心を改めるあの人間性の頂きをいうのである。一方、現代アートとして今日目に触れる芸術は、人類の芸術が歩んだ先に生まれた旅路の存在であって・通過点であって、辿り着くべき行き先ではないし、ゴールなんかでは毛頭ない。

ここで、現代社会に顕著な一切の現象が芸術の旅路を遅らせることで絶えず人々の迷いを助長する様子を、我々は現代アートと当為的芸術との乖離の中に見いだすことができる。

芸術の世界を引き合いに出して語るのは、ことにそれが人々の審美眼との関係で非常に重要な役回りにあるものだからである。そして我々は今年ヴェニスが生み出した時・所において、私たちの審美眼が死に逝くゆえんを知るのである。

 


ヴェネチア・ヴィエンナーレ】

現代アートの最高峰の祭典として、各国の代表作家の大掛かりな作品が、文字通り、軒並み連ねるヴェネチア・ビエンナーレ。あるいは現代アーティスト四天王のトップオブトップであるハーストの現代アートの象徴たる巨大かつ圧倒的な作品を見て、現代アートが何たるかのプレゼンテーションを我々は受けることとなる。

 

そこでは、水の都ヴェネチアでかつて漁業の基点とされた漁港の静まり返った海顔と美しく管理された海岸の佇まいに、パビリオンとよばれる各国の展示会場が設備され、その会場に大・中の大型作品が展示されている。各国代表1名のアーティストを選出し、その年の祭典が定めた題にてらって作品を制作・展示、金獅子賞を競い合う。

作品はほとんどが空間一帯を用いた空間芸術で、それらはみなパビリオン全体を使って一個の世界観を描き出している。会場には無数の世界観が壁ひとつあるいは壁ひとつ無しに存在している。

リンク:(https://www.google.co.jp/amp/s/www.theatlantic.com/amp/photo/526749/
リンク:https://www.designboom.com/art/japan-pavilion-venice-art-biennale-takahiro-iwasaki-05-12-2017/

その会場の放つ圧倒的な空気感・スケールは世界最古・最高峰の式典だけあって、まったく圧巻である。特に、ルーブル美術館ニューヨーク近代美術館など世界中の有名美術館へ足を運んでも、ここまで空間一帯を駆使した作品に溢れた空間には出会えない。絵画・彫刻より一層スケール感のある空間芸術は、特に空間そのものによって訴えかけてくるところが大きい。

しかし、たとえそうであったとしても、私たちは自らの動物性ゆえの影響から自由でいなければならない。つまり、空気感やスケール感によって審美感覚を歪曲されることを厭わねばならない。

 


ダミアン・ハースト

あるいは、ダミアン・ハーストの個展は、こちらも巨大で美しいギャラリースペースによって開かれている。計2つの会場をトータルすると、小さな小学校校舎くらいはありそうなスペースで手がけるは、何十何百に及ぶ立体・彫刻作品の展覧会。

リンク:(https://www.vogue.co.jp/lifestyle/culture/2017-06-04/page/17f:id:artbaseproject:20171114141156j:image

ハーストはここで、〈壮大な嘘は1つの現実〉たることを証明しようとした。壮大で均一の取れた作品が大は数十メートル・小は数センチに至るまで、広々と展開されている。

しかし、大衆は常に真実を見抜く。ハーストの嘘が現実になろうと、その作品の空虚感は会場における大衆の目によって露呈させられているはずだ。

 


【真実の芸術とはそんなものではない】

結局、芸術にも二面ある。

 

ひとつの面で芸術は、各個人の自由なキャンバスとしての機能を果たす。みな人それぞれが自由に筆を振るい、台座を用いて、線も形も色合いも、そして言葉も思想もまた、思い思いに降るってよい。いやむしろ、そうあるべきだと思われる。

もし仮に、個人の意思が社会のあらゆるシステムの中で抑圧され、不当に自由を拘束されているのだとすれば、われわれは意思そのものに教え伝えねばならない。本来、意思とは自由であること、自由な意思の有する創造の力がいかに優れているのかを。

不当な抑圧でいじけた意思に活力を与えるために、私たちは芸術する。このような芸術は、確かに人間の内省の秘めた自由な創造性の存在を、当人にも社会にも打ち明けるのである。

 

しかしこのような芸術の側面は、一側面ではあり得てもけっして全面を表してはいない。

自由な意思を自認した人間は、自らの自由にかまけて野原を精一杯に走りまわっていることもできる。しかしそのような芸術の一面性に依存した芸術家は、精神は自由である・意思は自由であるということを表明しているに過ぎない。それはいかにまことの真理であり得ても、結局、人間の個人性に着目したものでしかあり得ない。

人は人の間にあって初めて人間であり得る。人でしかなかった存在が人の間に置かれた時、そこに社会はもう芽生えている。われわれ現代人の多くは、物理的な意味で孤独を味わえたことはなく、生まれながらに社会があって人間として生まれているから、単なる人としての・個人としての自己に立ち会った経験はない。そこで、一室にふけ入り、無我夢中に創作することで芽生える個我としての己の自覚は、それを体験した者にとって大いなる意味合いを持ってくる。しかしたとえそうであったとしても、人間である社会性ある自分の側面を否定し投げ捨てることはできない。それは一室に閉じこもった時間から生まれる大きな誤解であって、結局、社会の中の人間である自分、世間に作品を発表し影響力を持つことになる自分、そんな人間である自分を正しく認識した時、自らの精神の自由だけを訴えるのでは規範がない。しかしたとえ一室に閉じこもった芸術家であっても、そこに規範は歴然と存在しているのである。人はみな、ひとりではない。たったこれだけの事実でも、それは私たちに次のような訴えを持っている。

すなわち、

 

「あらゆる芸術家や人間は、自己の作品とそれが与える社会的影響に責任を持たねばならない」

 

自己の精神の解放、他者の精神解放の自由、そして、自他という二つの個我の矛盾・衝突を回避する装置としての平等、これらを訴えていればよかったという時代は終わったのである。

自由と平等が正義である時代もまた、我々は開拓し終えた。
個人が自由を手にしてさえもまだ、払拭しきれぬ嫌悪感・充たされぬ充足感・幸福感の欠如、平等を謳っていてものこるしこり、これらがなぜ生じ、過去より成長した我々に何が未だ足り得ぬのか、
我々は見定め、学ばなくてはならない。

そしてそれこそ、人と人の結合なのである。
各人の自由と平等の次に、我々は各人の結合と調和の中にのみ生まれる幸福を学ばねばならない。
我々は新しい自然法を覚知し、憲法に明記せねばならないだろう。
我々は新たな人権をもって、我々みなにとって重要でそれを事欠いては幸せに生きることができない人間性というものを守っていく必要があるのである

 

「芸術が資本主義とか個人主義とかそういう個の一面に着目し、不貞の姿をさらしながら、人間に内在する徳性・利他性・品性を滅し、同じく内包する悪性・利己性・暴力性を活気たらしめるものとして機能することをやめなくてはならない。芸術は資本主義と連なりながら、それと同時に、人間がみな共通に人間であることを自覚させ、人間性に根付いていかなくてはならない」

 

そこで芸術のもう一つの側面は、社会に対しての責任ということになる。それを否定し、個性の一面に固執し、責任性を放棄することを望むのなら、極論、そのような作品は社会に流通されるべきではない。森の中に閉じこもり、自らの精神のためだけに作品と向き合うべきである。一室のうちで創作し、そのまま一室にとどめ置くべきである。

 

 

ヴェネチアで見たもの】

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ヴェネチアで私が見たものの問題は、結局こういうところによるのではないかと思う。

 

ダミアン・ハーストは〈壮大な嘘は真実となる〉というメッセージをなにゆえ世界に届け出たのか。

ヴィエンナーレの作品はなぜ世界的なアート祭であるのに、あれほど熟達されていない過渡的なメッセージを平然と表明するのか。

なぜわれわれ人類は芸術を鑑賞するとき、それを、心によってではなく、審美眼によってではなく、作品そのものによってではなく、作品に付された説明文によって行わなければならないのか。

心を打つ・感情を動かすという使命を帯びた芸術、それの最高峰と呼ばれる作家・作品が結集したヴェネチアにおいて、なぜあれほどまでに鑑賞者たちは何食わぬ顔で闊歩することを許されたのか。なぜ心を奪われ立ち止まらされることなく歩むことを許されたのか。

 

これらはいずれも、芸術が芸術としてのアイデンティティと使命を失念しているからに他ならないと私は思う。

 

人間は失敗を犯しながら成長していく。そこから、ひとりの芸術がまず個人的な側面において成長していくという過程を否定するものでは私はない。多くの人にとって、個人的なキャンバスであるという芸術の価値は偉大だ。その流れの中で必死に教育され、自由を知り、強く生きていく姿勢を学ぶ意義は底知れない。しかし、世界・社会が名作として評価・提示する芸術は芸術の二面を結合し完成させたものであるべきはずだ。

そんな視点から今年ヴェネチアが提示した芸術を見るとき、それが私には不甲斐なく見えたのだった。今日のヴィエンナーレがもし、歴史を継承・継続していくことをのみ使命とするものなのであれば、もし二年に一度の開催を裏付ける必要性がそれしかないのだとすれば、芸術論の観点からは今すぐにでも開催を改めるべきである。人類に還元される最も崇高な価値を芸術が表現していく土壌は、それが人類の持ち物であるがゆえに、皆で守っていかなくてはならない。もし今日のヴィエンナーレが文明のたたき上げの産物として欠点を帯びた遺産であるならば、我々は意欲的にそれの在り方を再考していかなくてはならない。来場者の数、経済波及効果という数値によって測ることのできる価値を超えて、人間性の頂きを描いた精神性の価値を守っていかなければならない。

このような機能を我々Art Base Projectが担えればと思う。

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ありがとうございました:)